沼津の水道の歴史資料


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「海軍の遺産・沼津水源地」  著:今井 三好 昭和54年発刊
「沼津技研物語」より

 

昭和十六年四月といえば大平洋戦争ぼっ発の直前であった。

 当時東京恵比寿の海軍技術研究所では、沼津へ音響研究部を移すことは既に決まっていて、電気研究部四科の(航空無線研究室)宮沢技術大佐と私は音響研究部に出向を命ぜられ、先発として私は単身沼津に着任いたしました。着任早々沼津市長名取栄一さん宅を訪れ一緒に市議会を訪門して海軍が沼津に研究所を新設することについて議会の協力を要請しました。

音響研究部の施設は全部水陸施設班が担当したが、その概要を述べると次のようなものであった。沼津市下香貫の本部の施設としてはエレベーター付の本部、直経一〇米の回流水槽、長さ一〇〇米巾一〇米の矩形水槽、空中実験用の防音室、回流水槽については沖電気品川工場の小林勝一郎技師長の実地指導を受け、防音室のグラスウールは日本ビクター工場の御世話になりました。特に第三研究室は古河電線が開発したアルミニューム電線で施工し東洋一と称せられた。

臨海実験場としては、牛臥、江ノ浦、淡島、長井崎、大瀬崎等があり、特に江ノ浦基地には二五〇トン、順幸丸、小型潜水艇(農林省所属)等がありましたが、突堤は海が深いため一メートル四角のブロックを積上げて三〇米長さのものを造りました。多比には伊豆石を切り開いた約三〇〇〇坪の大地下壕があり、空襲を避けて作業工場をここに移しました。変電所の受電は、山地のため苦労いたし工作機械等は道板を使って引込みました。蝙蝠が沢山いた地下工場でした。

 戦争末期、本土の空襲も次第に激しくなって来たので、研究所の疎開も真剣に考えなくてはならなくなり佃業務主任の命を受けて竹見技大尉と私が日本海側を探しに探して最終的に決まったのが石川県の穴水でした。そこでは、町役場警察署北陸配電等と交渉した結果歓迎して受け入れてくれることになりました。

扨(さ)て沼津に着任したところ日に話を戻そう。

 後日聞いたところによると、音響研究部の沼津での最初の候補地は柿田原であったと云う。ところがこの広漠たる土地に農家が一軒もないのは不思議だと思って調べたところ、なる程ここは富士颪(おろし)をまともに受けて吹きさらしだということで、予定を変更して香貫に決めたわけであったが、大切な水源についてはまことに迂濶(うかつ)であった。それと云うのも、千本から香貫へかけても所々自然湧水が出ている位だから、この一帯で井戸を掘れば水に困るなどということはあるわけがないと思い込んでいた。ところがいよいよ土地を確定してさてボーリングを三ヶ所もやって見たが、全然予想外れで水が出ない。そこで大慌てで水源探しが始まったというわけである。そこへ私が着任した。

 ちょうど其の頃、東京水道局はこの地方の水源から水をとって箱根越えで東京迄水を引く計画があるのを知って、水道局を訪れ情報を聞こうとしたが海軍に取られては困ると考えてか詳細には教えて貰えず、やむなく自力で現地を調べることになり、沼津駅から徒歩で半日も歩いて現在の沼津市水源池である柿田川湧水にたどりつきました。それまで写真伝送や伊豆大島でラジオビーコンの送信所の建設をしていて、水に悩まされ続けていた私を驚かせたのは、一日の水量が何と一二〇万トンという清らかな水が渾々と湧き出していることであった。

 早速この豊富な水を利用することに決まり、艦政本部ではすぐ予算をつけてくれたが、同時に地元の利害をも考え市と相談し、経費節減の意味からも半額を出して貰って市にも水をやるようにとの事であった。早速、名取沼津市長に其の旨申上げて議会に上程したが、急なことでもあり市財政の赤字を理由に断って来たので止を得ず海軍だけでつくる事になった。

 水源地は静岡県駿東郡清水村八幡泉で清水製紙焼跡一帯がえらばれた。工事は横須賀海軍施設部が直営で、私はオーナー格で指揮に当っていた。工事の中途で、韮山の江川代官がつくったという用水取水口が出て来た。当時ここから田方平野に水を引いていたと思われる代官の偉大さと遠大さにうたれました。

 工事については狩野川の底を通す送水管の前例が我が国にはないので、技研の文献室にドイツの文献を取り寄せて貰い、ライン川の川底の事例を頼りに川底工事に成功いたしました。送水管の径一二〇ミリのものであった。こうして川底を渡した水をいったん高台の五〇〇トン入り貯水池にポンプアップして、最高時で一五〇〇人もいた技研の人達の生活用水と、研究用プールの使用にあてた。その外の水源地としては江の浦の基地用と多比の工場用をつくりました。

 その頃沼津海軍工廠が出来ることになって、東京市水道局から嘱託として海軍工廠に猿渡さんが来られ、私に協力を求められましたので音響研究部の工事の忙しい中を許可を得て香貫山中腹海抜五〇米のところに配水池を建造した(送水管径五〇〇ミリ)。工事はカンテラを吊して素掘工事であった。現在の市水道の水瓶である(現在貯水池を香貫山の中腹に貯えてポンプアップして大容量の準備が出来ている)当時は海軍工廠に引く迄には至らなかったが貯水池は完成していた。

終戦直後沼津市としてもこの水道を移管して貰い度いとの事で芝辻一郎沼津市長から混乱のさなか市産業課長青木昇平(県会議員)さんを随行させるからという事で横須賀海軍施設本部の焼津の疎開先又横須賀の鎮守府にと懸命に廻り管財局に仮移管を御願した。そのことは沼津市水道事業の沿革の一節に沼津市が旧海軍から水道の移管を受けた当時の経緯が記されている。今にして思えば、沼津市の皆さんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水が出ていたので、何も高い施設費を払って水道をつくることはないという一般的な考えがあって、当時赤字財政を理由に水道投資の辞退を申出たのでしょうが、それにしても朝に晩にこの水を飲むことが出来る市民は幸である。

現在二〇万人口で八五パーセントが日量一〇万トンのこの水でうるおって居り、水道料金も全国一安いといわれている。

 

(一)清水村八幡に水を洩らす話

或る日、八幡の代表数名の方が見えて地元の私達に海軍の水を分けて貰い度いとの要求がありました。地元という事で上司に報告したところ、公然と水を分けてやる事は出来ないが、洩れる分には致し方なかろうという事で、私は地元に水を洩らすことになり、これが現在の清水町に水が行くことになった元だと思います。

(二)熱海に水道を

昭和四〇年の春、突然、熱海の市議三枝敏三郎さん(元技研作業班事務)が青木館社長青木弘光市議を伴って水道について話を聞き度いという事で見えました。熱海に水が少いので泉の水を引き度いと云うのです。当時熱海では日量五万トンで不足という事で、恰も当時熱函道路の計画が出ていたのでその道路の下に水路をつくり度いとのことでした。

機会ある毎に三人で夢のような話をして居りましたが、昭和四五年頃、熱海市川市長当時、用地買収が始まり翌年着工、五〇年一部給水が始まりました。その間県の工事所長が漆畑八三さんで芝浦工大の後輩に当たるところから先輩の後を自分が引継いだと所長はよろこんで、種々の話合をいたしました。現在市水源地の隣家に深沢姫鱒養殖をしていた用地を買収して(自噴している)日量一〇万トンを熱海六、三島三、函南一、と分けるようになり熱函道路の下を通って居ります。

(三)泉水源地とは

富士山の東南麓一帯に降った雨や雪どけ水などが地下水となって、富士山の溶岩の空隙を通りこの附近一帯に湧出しています。泉水源地は日本最大の湧出量を誇る柿田川湧水日量一二〇万トンの一部であり、現に空タンカーで中近東へも水を運ぶことが話題になっている所以であります。

終わり




【昭和4561日沼朝記事】

 

戦争の落し子 沼津の水道

生みの親、今井さん

 昭和十六年四月といえば太平洋戦争ぼっ発の直前で日本の陸海軍は日夜戦争への準備に大わらわであったのだが、当時東京の恵比寿駅近くにあった海軍技術研究所が手狭となったことから沼津へ音波や電波の研究部門を移すことになり、今井三好海軍技手は宮沢海軍大佐(着任時に少将となった)について沼津へ出向くことを命ぜられたのであった。

 技研は艦政本部のもとにあった部門で、海軍が新らしく施設をつくるときは@本拠地を早く探すことA水源地を確保することB道路を整備すること、の三つが絶対条件であったので、陸上施設になぜ水源が絶対条件なのかなと思いながらも命令だから今井さんは引きうけたのである。

 註=日本海軍の音波、電波研究は非常にすぐれ世界一といわれたが、残念ながら生産の段階で間に合わず実戦に間に合わなかったものも多いという。

ちようどその頃、当時の東京市当局は、この地方の水源から水をとって箱根こえで東京まで水をひく計画があることを知って水道局を訪れたが、海軍にとられては困ると考えてか、詳細には教えてもらえず、やむなく現地をしらべることになって、沼津駅から徒歩で半日も歩いて、いまの沼津市上水道第一水源地である柿田川湧水にたどりついたという。それまで伊豆大島で、ラジオビーコンの仕事をしいて水になやまされていた今井さんを驚かせたのは一日二百万d(当時そういわれていた)もの清らかな水が、こつ然として湧きだしていることであった。

 今井さんから、この豊富な湧水を利用したいとの報告をうけた艦政本部では、すぐさま予算をつけてくれたが、同時に、地元の利害をもつ市町村と相談し、半額をだしてもらってその市町村へも水をやるようにとの指示があった。

 当時の沼津市長は名取栄一さん、庶務課長が山本広さん(後の助役)であったが、市財政が赤字で貴意にそいかねるとの市議会の決議書を、赤字を説明する資料数冊といっしょに今井さんのところへもってきたので、やむをえず海軍だけでつくることになったわけである。

 水源地は清水製紙の焼跡近くがえらばれたが、工事の中途で韮山の江川代官がつくった用水掘取入口のあるのを知り、江川代官の偉大さと遠大さにうたれたという。

工事といっても、当時の日本には河を渡す送水管の前例がなかったので、ドイツからとりよせた文献を頼りに、狩野川の底を通す難工事を成功させたのだが、そのときの送水管は百二十_経のものであった。こうして川を渡した水を一たん高台の貯水池(五百トン入り)に入れて最高時で千五百人もいた技研の人たちの生活用水と研究用プール(木ノ宮地先)の使用にあてた。

 そのうちに海軍工廠が沼津へできることになって水が不足することになるので現在残っている香貫山のトンネル式配水池を建造したのだが、この送水管は五百_級のものであった。

 この配水池が完成して間もなく終戦を迎えたのだが折角つくったものを米軍に渡すことはないから爆破すべぎだとの意見が技研部内に強かったが、当時市の産業課長であった青木昇平さん(いまの県議)といっしょに今井さんは懸命に施設本部などを説いて回り、やつとのことで無事に、しかも無償で沼津市に引言渡す,ことができたのである。

今井さんは「いまにして思えば、沼津市のみなさんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水がでていたので、何も高い金をだしてまで水道をつくることはないという一般的な考えがあって、赤字財政が水道投資の辞退を決定づけたのでしょうがそれにしても今日、私が努力した水道の水を、朝に晩に飲むことができるということで、報われたという気持ちです」といっている。

 そんなわけで、沼津市の上水道と今井さんの関係は密接なものがあり、いままで何回も感謝状でもやりたいというような非公式な話はあっても、一度も実現していないのに「いまさら何も……」と笑っている。

(今井さんはいまアーケード名店街で富士電業を経営している)

 
「沼津の空襲と戦跡」展
20日までパレットで
 昭和二十年の、きょう七月十七日は沼津が大空襲に見舞われた日。これを忘れないようにと、県による「沼津の空襲と戦跡」展が二十日まで、沼津駅南口前のパレット一階ギャラリーぷらざで開かれている。
 沼津市は同年一月から八月にかけ延べ八回の空襲を受けたが、その中で、最も規模の大きかったのが七月十七日。
 この日だけで二百七十四人の死者を出し、九千五百戸余りを焼失。市街地面積の八九・五%が破壊された。これは富山市に次いで全国でも二番目に高い焼夷率だという。
 会場では、被害の様子を写真パネルで紹介。
 沼津海軍工廠や沼津の海軍特攻部隊の基地、海軍技術研究科の電気五科をルーツに設立され「沼津の技研」と呼ばれた沼津音響研究部(本部・下香貫)などが取り上げられ、分かりやすく解説した資料が並んでいる。
 東椎路の男性(81)は、「(沼津大空襲があった)当時は、音響研究部の寮にいて、周囲は一面が火の海となったが、仲間と敷地内の消火にあたったものだった」と資料を目にしながら振り返っていた。
 開場時間は午前十時から午後五時。
 問い合わせは県東部パレット市民活動ネットワーク(電話九五一ー八五〇〇)。
(沼朝平成20年7月17日(木)号)



 

海軍技研址(ぎけんし)の碑 (下香貫木の宮)

海軍技術研究所とは、大正12(1923)に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関です。

沼津に設置されたのは同研究所の中の音響研究部という部門で、昭和16(1941)11月のことでした。

場所は下香貫で、現在の第三中学校とその周辺地域約82,000坪が敷地でした。

この中に研究所・工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫などが配置されました。

これ以外に江浦・淡島・大瀬崎・長井崎・多比・下土狩などにも用地・設備を持っていました。

また、実験用の船舶も
10隻以上ありました。

この研究所では、空中・水中聴音機、潜水艦探知機などの開発が行われました。

海軍の武官・文官をはじめ、徴用工員・女子挺身隊を含め多い時で約2,000名の人員が働いていました。

昭和48(1973)には三中前に「海軍技研址」という記念碑が建てられました。当時の遺構として、

三中の北東の山の上に配水槽が残っています。

また近年までレンガ造りの倉庫が残っていましたが、老朽化し危険なため取り壊され、

平成
17年にはその部材を使用して三中の正門東側にモニュメントが作られました。

(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)

海軍技研址碑陰刻文

(上段)

太平洋戦争中海軍技術研究所音響研究部は本拠をこの下香貫に基地を江ノ浦淡島牛臥大瀬崎等に置く
 国を愛する若人一千八百各持場に心血を注ぎ 純情の学究南波醇三身を挺して南海の戦場に殉じ 又十七才の

(下段)
少女菊地ひで等七名空爆の犠牲となりてこの処に散華す
往時を偲び記念碑を地元の有志榊原平作氏の好意によりこの地に建つ

昭和四十八年 桜咲く頃 音響会

碧洞 佃定雄撰井書

 

(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)

【平成1416日沼津新聞・日曜特集より】

「柿田の泉」再現を

今こそ先人を見習おう

 

旧海軍の遺産ねらう

競い合った過去の歴史

ここで振り返って柿田川湧水をめぐる歴史的な動きを見ると、今から半世紀以上も昔、東京都がこの地からはるばる東京まで送水する構想を打ち上げたが、それが実現される前に海軍が目をつけ今は亡き今井三好氏(のちのイマイ電機社長)らを派遣し調査に乗り出した。この結果、香貫山北斜面にトンネル型貯水池を作って海軍の諸施設へ送水したのだが間もなく終戦となり、柿田川水源は一旦国有地となったところで、その権利をめぐって、元の所有者の京都の西川孝太郎氏をめぐって清水村(当時)と競願いとなった。

当時の沼津市は戦災直後とあって財政にゆとりがないことを知っている当時の市議会議長、塩谷六太郎氏が二十万円を都合して、辛うじて先手が打てて沼津市のものになったいきさつがある。

このような先人の努力で勝ち得た水源だが、実際に上水道に使っている水の量は、湧水量の一割程度で残りは狩野川への流れに任せている状態である。

従って、その一部を商品化することは、今日の緊迫した財政事情の下では、その努力によっては充分可能なはずだと言うのが「柿田の泉」再現論の骨子なのだが、市当局は、どう受け止あるのだろうか。

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